ためらわないように
「勇気ある行動をしたね。」
そう言ってコムイはミランダにティー・カップを差し出した。
コムイの言葉を理解したミランダは微笑しながらそれをそっと受け取る。
香しい紅茶の匂いがミランダの鼻腔を擽った。
「いいのかい?彼は…ラビは甘えているだけだよ?『大人』な君にね。」
コムイの問いにミランダは無言のまま小さく頷いた。白くて細い、他者に儚げな印象を
与えるミランダはつい先日、ラビとつきあう決心をした。まるで姉のようにミランダを
慕っていたコムイの妹であるリナリーは心底悔しそうにコムイに愚痴ってきた。
”ラビなんかにミランダはもったいないわ。”
頬を膨らませてご機嫌斜めの妹を宥めるのは大変だった。コムイの可愛い妹は単純に
姉をとられたような感じがして拗ねていただけだが、コムイは普段とる突拍子もない
行動とは裏腹に洞察力がとても鋭かった。そして心の中でミランダに同情したのだ。
”気の毒に。”と。
「あの時、君がNOと言っても大丈夫だったと思うよ?」
「私も…そう思ったんですけれど。」
それができなくて、と頬を赤く染めてミランダは紅茶を一口飲んだ。
「おかげでリナリーに八つ当たりされちゃったよ。もう、大変。」
もっと違った構い方がいいなあ、とぼやくコムイに、ミランダは苦笑を浮かべる。
すみません、と謝りながら。
ラビはいつか必ずこの場所を去る日が来る。これは自明の理であり、覆されることのない
決定事項だ。それを却下する権限をコムイは持たないし、引き留める権利をミランダは持たない。
それならば最初からつきあわなければいい。誰もがそう思うだろう。
しかしラビとて人間だ。しかもまだ18歳の、ようやく青年の域に達したくらいの。
コムイからしてみれば、若さと情熱のエネルギーに溢れ、何をするにも素早い瞬発力で
動ける、ある意味、通り過ぎてしまった年頃だ。それゆえ、持て余してしまいがちな
衝動を抑えられないのも頷ける。その矛先が恋だったとしても誰が止めることができようか?
そもそも、恋自体が制御不能な存在だというのに。
そしてそんなラビが選んだのはミランダだった。7歳年上の『大人』の女性。
これはコムイのカンであるが、もしラビが選んだのが同年代や、ラビと同じようにまだ
自分のエネルギーを制御しきれないような人だったならば、ラビは踏み出さなかったはずだ。
自分で自分を抑える術に長けているミランダだったからこそ、ラビは躊躇なく進んだのだろう。
それはラビの傲慢な計算によるものだ。いつか来る別れに備えて、ミランダならその悲しみに
耐えうる、とラビは判断したのだ。彼女なら平気だと。例え僅かな期間しか一緒にいられない
恋でも、そしてラストが涙で終わる恋だとしても、ミランダなら大丈夫に違いない、と。
ラビの無意識のうちにおこなわれたしたたかな計算の答えはミランダ以外いなかった。
ミランダに恋してからその計算をしたのか、はたまた計算した結果にミランダが導き出されたのか
どちらなのかコムイにはわからない。けれど、経緯はどのようなものであれ、ラビがミランダを
愛している事実に嘘偽りはないのだ。誰だって愛する人と結ばれたいし、その先に進みたいと
思うのは当たり前のこと。恋に駆け引きはつきものだし、計算だってするだろう。
「人は…一人で生きていけるほど強くはない、と思うんです。」
ミランダはそう言って紅茶に映る自分の顔をジッと見つめた。例え僅かな時間でも、共にいる
ことがラビの支えになるのであればそれでかまわない、と言外に告げた。
「けなげだね。ミス・ミランダは尽くすタイプなのかな?」
「そんな…。そんな大それたものじゃないです。それに辛いのはラビくんの方だと思うんです。」
「なぜ?」
「だって私はここに居場所があります…。どんなに辛く悲しい事があっても、大丈夫だよ、と
言ってくれる人がたくさんいます。けれど…。」
「けれど?」
「此処を去るラビくんには、そういう人がいません…。」
今はまだブックマンと旅をしているラビも、近いうちに一人で旅立つ日が来るだろう。
川の流れのように一箇所に立ち止まらず、立ち止まれず、彼は行く。
ちょっと休憩した場所で、もし寂しさに、孤独感に襲われた時、そこに彼に手を差し伸べて
くれる人はいないのだ。ブックマンに心はいらない、と言っても人間である以上、
感情というものから逃れることはできないのだから。
寂しさと悲しみに傷つくくらいなら、別れの辛さの傷の方がましなのでは?とミランダは思った。
あちこち旅をしてきた彼なら別れの辛さは何度も経験済みなはず。同じ傷ならば、まだ慣れている
傷の方が遥かにましなはず…。きっとラビもそう思っていることだろう。
なぜならラビはその傷の痛みを知った上でミランダを選んだのだから。
「同じ傷なら軽い方…か。それで、ミス・ミランダは自分のことはどうでもいいと?」
「私は……傷つくことに慣れているんです。」
ミランダの言葉にコムイは眉を潜める。けれどミランダは淡々と言葉を続けた。
「そして、それ以上に立ち直ることにも慣れているんです。」
ミランダの凛とした声が部屋に響く。調査書によれば、お世辞にも幸福とは言い難い人生を
歩んでいた女性。生来の不器用さもあって、思わず溜息を吐いてしまいそうな日々を
送ってきた女性だ。確かに傷つくことは他の人の何倍もあったことだろう。
しかし、逃げ場を持たないミランダはそれを真っ正面から受け止めることしかできなかった。
その不器用さゆえに真面目にそれを受け止め、傷つき、悲観し、絶望し、そして立ち上がってきた。
何度も何度もそれを繰り返してきたのだ。数え切れないほどそれを一人で――――。
「私、今ほどラビくんより年上でよかったって思ったことはありません。」
ラビとミランダを比べるならば、いくら年の差があるとはいえ、ほとんどのステータスは
ラビに軍配が上がる。ブックマンとしての知識、世界を放浪してきた経験は彼を普通の
18歳の青年という枠におさめはしない。けれど、ラビはミランダほど傷つき立ち直って
きたわけではないのだ。
むしろ生来の器用さを持つラビは上手に避けて、もし傷つくことがあってもできうる限り
傷が浅くなる方法を取ってきたはずだ。ラビがミランダの手を取ったことは、それが一番
浅い傷なのだろう。ミランダは漠然とそう思っていた。そして、それは外れることのない
想像だということも。
ミランダはラビより7歳年上で、なおかつ他の人に比べてたくさん傷つき、
それでも立ち上がってきたという事実は、ラビとの道を分かつ時にきっと自分を支えてくれる。
だからこそ、ミランダはラビより年上であることを心から喜んだのだ。
そして、今まで不幸の過去でしかなかった出来事は、これから先に訪れる悲しみにとって
なんと役に立ってくれることか。ミランダは自分の人生に初めて誇りを持つことが出来た。
そのおかげで、自分は最愛の人と向き合うことができたのだから。
純粋なようでしたたかな、色々なものが混じり合ったラビとミランダの恋。
不毛なのかもしれない。不必要なのかもしれない。それは他人にはわからないし、二人にもわからない。
それでも、近いうちに訪れる別れを受け止められる。受け止める自信があるからこそ、
ミランダはラビの手を取った。そして許した。彼の傲慢すぎる甘えを―――。
「幸せものだね、ラビは。」
普通の女性は断るよ、と言われミランダもそう思う節があるのか苦笑いを浮かべる。
「それでも…。」
「それでも?」
「それでも、ラビくんは私を選んでくれたんです。全てを承知で、全てを覚悟して。
だから…私を選んでくれた時は、本当に…嬉しかったんです。」
ティーカップを両手で包み込んで柔らかく笑うミランダを、コムイは純粋に美しい、と感じた。
この恋だからこそミランダはここまで綺麗な笑みを浮かべることができたのだろう。
こんなにも複雑に織り込まれた恋だからこそ。
「ミス・ミランダ。」
「はい?」
「君は今…、幸せかい?」
その時、コムイの前で見せたミランダの笑顔は淡雪のように儚げで繊細だった。
この笑顔を、コムイは忘れることがないだろう、と内心で呟く。
たあいのない世間話を少しした後、ミランダは部屋を出て行った。コムイは書類の山を
少しでも減らそうと奮闘し、そしてすっかり温くなったコーヒーを口に含む。
そして何気なく見た窓の景色に、ラビとミランダが寄り添う姿が映った。
指先をほんの少し絡めて歩く恋人同士の姿。見ていて微笑ましくなる。それと同時に
いつか見られなくなるのか、と思うと心の隅に重いものを感じる。
それでも躊躇わずに寄り添う彼らにそっと祈りを捧げたい。
「どうか、幸せに。」
それだけを切に、願う――――――――。
<終わり>
祈ることしかできない無力な自分をどうか許してください。