さよならすきだったひと
”さようなら。”
そう言って泣くのを堪えて別れたのはいつだったか。枕を濡らして泣いた日々は遠く、
今では、ほんの時折にほろ苦い思い出として思い出すように変わっていた。
「…困ったわ。」
ミランダは小さなトランクを一つ抱えて呆然と立っていた。年月が経っても、ミランダの
性格はそうそう治るものではなく、今回も、目的地と違った列車に乗ってしまい、ホームで
途方に暮れていた。ちなみにミランダは一人旅の途中である。
熾烈を極めたアクマとの戦いは教団側の勝利となりあの頃が嘘のように平和になった。
アクマと戦うのが使命だった教団側も目的を果たした以上、解散ということになったわけだが、
それでも一部の人間はヴァチカンに引き留められて、今までとさほど変わってない生活を
送っている者もいる。イノセンスを扱うミランダも引き留められたが、もうここに自分がいる
必要はない、とのことでミランダはイノセンスを教団に引き渡し、一人教団を去ったのだ。
帰る場所もなく、あてもない。それならば、今まで行ったことのない場所に行ってみるのは
どうだろう、と思いつき、仲間達の心配をよそにミランダは一人旅に出た。
「一度、戻った方がいいのかしら?」
どうしようか考えあぐねているミランダの視線に、記憶に刷り込まれた赤い髪が映る。
歩くたびに、赤い髪を見つけるたびに、まさか、と思いながらも、愛した男と違う顔を
見つけて、ホッとしたり、がっかりしたりしていた。今回もそうだろう、と思って
なんとなく視線を動かしたら、
そこにいたのは、あの日に”さようなら”を言った人。
ミランダは思わず口元に手を当てた。もう二度と会えないと、会えるわけがないと思って
いた人を見かけられたのだ。ミランダの心臓がドクドクと一気に跳ね上がり、口の中が
急速に乾いていく。ギュッとトランクの持ち手を握りしめて、意を決して視線を向ければ、
あの日と変わらない笑顔の人がいた。
その時、ミランダの頬から一滴の涙がこぼれ落ちる。笑顔で”さようなら”を言ったあの人に
ミランダは一つだけお願いをしたのだ。約束はおろか、心一つ残していけないたった一人の人に。
”ずっと変わらないでいてね。”
何があっても、貴方は貴方のままでいて、と勝手を承知で言った言葉に快く頷いてくれた
最愛の人は、ミランダが願ったとおり何も変わらずあの日の笑顔のままだった。
それがミランダにはとても嬉しかった。ただただ嬉しくて嬉しくて仕方がない。
だから今、ミランダの頬をつたう涙は悲しみでなく、嬉しさを含んだものなのだ。
ああ、やっと。小さな声でミランダは呟く。これで全て終わったのだ、と。
ミランダの中でほろ苦さを含んだままの恋は今、静かに昇華した。
何をしたわけでもない。ただ偶然ラビの姿を見かけ、そして変わらぬ笑顔を見ただけ。
たったそれだけのことだけれど、ミランダにとっては何よりも大事な最後の儀式だった。
ハンカチで涙を拭ったミランダは、しっかりと前を見据えて歩き始める。
自分の行くべき場所は切符に記されている駅で、決してラビを追いかけることではない。
コツコツとブーツの踵を慣らす。さっきまで重く感じたトランクは今では軽く感じる。
心は晴れやかな気分でミランダは今度こそ、間違わないように列車に乗り込んだ。
走り始めた列車。さっき見かけた赤い髪の人はもういなくなっていた。それでいい、と
ミランダは口端を持ち上げる。もう、探す必要はなくなったのだから。
流れゆく景色の中で、ミランダはラビとの出来事を思いつく限り考えた。どれもこれも
色鮮やかな思い出で包まれた宝物はまるで宝石の欠片のよう。
その欠片たちを、ミランダは心の宝石箱にそっとしまう。後になって、何かの拍子でこの宝石箱を
開けた時、色鮮やかな欠片たちはミランダに幸福な思い出を見せてくれることだろう。
「さようなら。」
小さな声でミランダは呟く。余りにも小さすぎて、列車の走る音に紛れてしまったけれど。
それでも、自分の耳にはきちんと届いている。同じ言葉をあの日にも言った。その時のミランダは
泣くのを堪えて言った辛いものだった。けれど、今のミランダには笑顔が溢れている。
こんなにも心を軽くしてくれる言葉なのだと、初めて知った。それを教えてくれた『思い出の人』に
心の中で、ありがとう、と囁く。これでやっと終わったのだ。やっと、これで――――――――。
これで、本当の”さようなら”
<終わり>
約束を守ってくれてありがとう。私が愛した、たった一人の貴方。