思う気持ちを


「一度見たり、聞いたりしたものは絶対に忘れないんだ。」


そう言ってラビは笑った。ミランダも釣られるように微笑む。
一度どころか、何度も何度も読み返したり聞き返したりしなければならない
自分と違い、なんて凄いのだろう、とミランダは漠然と感じていた。
少しの違和感を感じながら。

自室に戻ったミランダはゆっくりとゆっくりとさっきの言葉を思い出す。
こうして何気なく見ている光景をミランダはおぼろげに覚えることはできても
鮮明に記憶することはできないだろう。『それだけ』を覚えていられる生活では
ない。もっともっと覚えねばならないことは山ほどあるのだ。

人が脳に記憶させる量には限りがある。その全てを覚えているなど無理なことなのだ。
けれどラビはできる、と言う。言葉の一字一句、仕草の一つ一つを記憶していると。
それはとても凄いことなのに、何故か違和感が拭えない。その理由がわからなくて
ミランダは考え込んでしまった。

考えて理由がわかるものでもなく、そのうちわかるだろうとミランダは机の引き出しを
開けた。そこに入っていたのはミランダが初めて貰った給料で買った小さな手鏡だった。
買ったばかりの頃はよく眺めていたけれど、最近ではその存在すら忘れてしまっていた。
あんなにお気に入りだったのに、と苦笑してしまう。

「ラビくんならこういうことはないのでしょうね。」

初めて貰った給料を何に使おうかとわくわくして、何気なく見ていた店に飾られていた
銀細工の小さな手鏡を見つけたのだ。買った鏡の袋を抱えて歩いた足取りは確かに軽かった。
その頃を思い出して自然とミランダの頬が緩む。けれど、その鏡を買った翌日に、あまりの
失敗の多さに仕事を首になったことを思い出し、笑みは溜息に変わった。

嫌なことまで思い出してしまったわ、とミランダは手鏡をそっと引き出しにしまい込む。
せっかく忘れていたのに、と思ったところで、ミランダはハッとした。
さっき感じていた違和感の理由がようやくわかったからだ。

人が生きていく中で、残念なことに幸せなことばかりではない。むしろその逆といって
いいくらいのことが多々ある。有り難いことに人はとても忘れやすい生き物らしく、
時間がたてば過去の出来事として片づけてしまうのだ。時折思い出すことはあっても
その全てを覚えているわけでも、思い出すわけでもない。

けれど、ラビは違う。決して忘れることがないと言っていたラビは普通の人ならば
忘れてしまった出来事すら鮮明に覚えているのだ。それはとても辛いことではないだろうか。
人は『忘れる』という行為により心を守ることがある。でもそれができないラビはどうする
というのか。傷つきながら生きていかねばならないのだろうか?

その考えに辿り着いたミランダは身震いをした。ラビはなんという運命を背負って生きて
いるのだろう、と。いつか終わる戦いと違い、ラビの運命は彼が死ぬまで背負わねば
ならないものなのだ。それをラビ自身が望んで背負ったのかどうかわからないけれど。
歴史の裏側を記録するのが役目である。わずか18年しか生きてないといえど、その歩んだ
道はミランダとは比べものにならないほど過酷だったはずだ。

それなのに彼は達観しているわけでもなくとても朗らかに生きている。その辛さなど
微塵も感じさせないほどに。強い、とミランダは思った。そして羨ましいとも。
自分にその強さはない。これから先も、持ち得るとは思えない。
それでも、ラビの欠片ほどでもいいからその強さを持ちたいと願う。

「私も、頑張らないとね。」

羨ましがってばかりでは何も出来ないもの、とミランダは小さな目標を立てた。
そして喉の渇きを感じたのでお茶でも飲もうと食堂に向かった矢先、ミランダ、と
呼び止められる。彼女を呼び止めたのは、ラビだった。

「ラビくん。」
「ミランダ、ちょっといい?」
「え、ええ。」

話があるんさ、と半ば強引に連れて行かれ、さっきまでラビのことを考えていたミランダは
戸惑う。けれど、そんなミランダの様子などお構いなしに、ラビはミランダを人気のない所に
連れて行った。

「あ、あのラビくん?」
「ん?」
「は、話って何かしら?」

おずおずと見上げるミランダを、ラビは優しい目で見下ろしている。そして、するり、と
何気なく囁いた。


「好きだよ。」


その言葉の意味を、それが示す感情の想いを理解したミランダは息を飲む。
そしてさっきのラビの言葉がフラッシュバックのようにミランダの脳裏によみがえった。


”一度見たり、聞いたりしたものは絶対に忘れないんだ。”


嬉しいことも辛いことも、楽しいことも悲しいことも全部彼は記憶してしまう。
ここでミランダがラビの想いを否定したら、彼女の表情も仕草も言葉も、全てが
悲しい記憶としてラビの中に残るのだ。彼が生きている限りずっと。
そんなこと、できるわけがない。朗らかに笑う彼に、辛い記憶を植え付けることなど
どうしてできるというのか。

「…う、嬉しい、わ。」

そう言ってミランダは微笑んだ。出来る限り優しく柔らかく。自分の心の内を悟られない
ように。ミランダの微笑みを見たラビも嬉しそうに笑った。それを見てミランダは内心で
安堵した。どうやら、悟られてない、と。

ラビの腕がそっとミランダを閉じこめる。ラビの胸板に頬を寄せてミランダは目を瞑った。
これでいい、と。明るい笑顔の彼に、悲しい記憶は似合わない。まして、自分なんかが
それを与えていいはずがない、と。自分は決してラビのことが嫌いなわけじゃないのだから、
だから大丈夫、とミランダは必死に自分を納得させた。

ラビは腕の中で大人しくしているミランダの耳元で優しい声色で囁く。

「大事にするよ、オレのミランダ。」





そしてミランダに聞こえない小さな声で『チェックメイト』と呟いた。


<終わり>

もう君はオレのもの。オレだけのもの。