流れるもの


当たり前だが、いくら空が身近に見えても、手に届く距離にはない。
そして小川に手を入れ、水をせき止めようとしても僅かな隙間から水は流れてしまう。
目の前にありながら決して掴めない。ミランダにとってラビとはそういう存在だ。

こんなに近くにいるくせに彼は何一つ残さず流れていってしまう。空の雲のように。
手を伸ばせば届く距離なのに、とてもとても遠いのだ。
いつだったか任務の途中に立ち寄った街で、子供たちが遊んでいるのを見かけた。
そのうち何人かが一生懸命空へと手を伸ばしている。

”ん〜っ!届かないっ!”
”無理だよ。もっともっと高いところにあるんだもん。”
”何か乗っかる物とかないかな?”
”あ、あれなんていいんじゃない?”

そう言って子供たちは積まれている樽によじ登って空へと手を伸ばす。
その小さな手で青い空に触れようと必死に。その遥か頭上を鳥が飛んでいったけれど。
それを見ていたミランダはとても泣きたくなった。
空に手が届くと信じている小さな子供になりたくて。もう、なれないとわかっていても。

世の中のことなどほとんど知らない純真無垢な瞳の子供たち。目の前にあるものを
素直に受け取り、それに向かって迷いなく進めることはなんと羨ましいことか。
けれどミランダは知ってしまっている。空に手が届かないことも触れられないことも。
目に見える全てが、その手に掴めるわけではない、ということを。

ミランダの指先は望んでいるものに届くことは決してないのだ。今も。そしてこれからも。
まるで誰かに呼ばれているようにラビは道を歩いていくのだ。彼のことをする術のない
ミランダはここに置き去りにされるだけ。ひとりぼっちで。

”愛してるさ、ミランダ。本当に。”

耳が記憶してしまった愛の言葉。ふとした瞬間に繰り返される甘い囁きはいつも
ミランダの涙腺を虐める。でも、いつの間にかそれを堪えるのが上手になってしまった。
ミランダにとって、ラビから言われた言葉は全てであり、かけがえのないものだけれど、
でもラビにとって、ミランダに言った言葉は、通りすがりの挨拶ではないか、と思ってしまう。

長い旅の途中、偶然立ち寄った街ですれ違いざまに、さらり、と言うような。
何処までの旅ですか?何処までもですよ、と会話する街の人と旅人のよう。
それじゃあ、また。お気をつけて、いい旅を。これがきっと別れの言葉になるのだろう。
挨拶には挨拶で。わざわざ別れの言葉など必要ない。

ラビはきっと、ミランダにサヨナラさえ言わせずに消えてしまうはずだ。
ミランダは時間が心の傷を癒してくれるまで、ただ泣くだけ。
別れも言葉も言えず、縋ることも出来ず、悲しみにくれるだけ。
何も出来ずに途方に暮れる、だけ。

ミランダにとってラビは全てだけれども、ラビにとってミランダの存在は立ち寄った街で
通り過ぎた人の一人に過ぎない。これだけ大勢の人がいる中で、目に入っただけでも
珍しいことなのかもしれないけれど。

それでも、ほんの袖を摺り合う程度の存在ならば、そのままそっとしておいてほしかった、と
ミランダは思ってしまう。そうすれば、ミランダは空を見て微笑んでいられた。
届かないものを想って嘆く哀しさに捕らわれることはなかったのだ。
それだったら、どんなに――――――――。

「ミランダ!ここにいたんだ。探したさ!」
「あ…ラビくん。」
「いつもの書庫にいないから何かあったのかと思った。」
「ごめんなさい。空が透き通るように青くて、つい見とれていたの。」

雲一つないでしょう、と微笑むミランダにラビも笑いかける。

「ここからじゃなくても空は見えるさ。行こう?」

そう言ってラビはミランダの手を引く。ミランダは逆らうことなく歩き出した。
少しだけ振り返ったミランダの視線の先に、窓から青い空がのぞく。
そして横切るように鳥が飛んでいった。鳥でさえ、空に届かないのだ。
翼を持たない自分が届くわけがない。わかっているけれど、無性に悲しい。

けれど今泣くことはできないから、ミランダはラビの手をぎゅっと握りしめる。
ふいに力を込められた手をラビは一瞬だけ視線を落として、すぐにミランダの
方を向いた。どうした?と瞳で問いながら。ミランダは、なんでもないわ、と
小さな声で呟く。再び前を向いて歩き出すラビの背中に向かって息を吐いた。







悲しみを持て余した小さな溜息を、そっと――――。



<終わり>

どんなに願っても、この指は貴方に届かないのよ?