変わってゆく何か
ミランダは決して要領がいいとは言えないが、それでも一度決めたらそれを目指して
最後までやり抜こうとする粘りがある。それゆえ、目標に向かって突き進むのだが、
時としてそれは視野を狭めてしまうこともあるのだ。その結果、ミランダは年頃の
女性としては純粋、悪く言えば世間知らずだった。
特に男女の関係においてそれは顕著に表れ、20代半ばの女性とは思えないほど
無頓着になってしまったのである。だからといって、恋をしたことがないわけではない。
人間とは、どんなに忙しくとも、どんなに何かに夢中でも、一瞬の間に恋に落ちる
ことができるのだ。それはミランダとて例外ではない。
仕事に追われ、己の不器用さに溜息をついていた日々の中、仄かな恋心を寄せていた
人物はいたのだ。その人はミランダが想いを告げる前に明るい笑顔の人と神の前で
永久の愛を誓ったけれど。ほろ苦い思い出だけれども、それでもミランダにとって
それは大切な大切な恋の思い出である。
今思い出しても、甘酸っぱい感覚にとらわれ、少しこそばゆく感じてしまう。
ミランダにとって恋とは柑橘系のフルーツを思わせるのだ。だから…。
「これはきっと、違う…わよね。」
ギュッと握りしめた手を胸のあたりに置く。最近のミランダはいつも胸が痛かった。
正確に言うと、心が痛い。とても。
ミランダの心が痛む時、いつも決まって視線の先に一人の人物がいた。
彼の名前はラビ。ミランダと同じエクソシストの若者である。
いつも明るく朗らかで、彼の髪の色に負けないくらい周囲を明るくしてくれる青年だ。
ミランダが静ならばラビは動。正反対の二人なのだ。
ラビに視線がいってしまうことに気づいたミランダは、ラビが明るく賑やかだから
目がいってしまうのね、と思っていた。
けれど、気がついた時ミランダはいつもラビを探していた。それはラビが大勢でいても
一人でいても変わることのないことで…。
それに気がついた時、ミランダの心がずきり、と痛んだ。むしろ軋んだといっても
いいかもしれない。
ミランダの心が痛んだ原因を、そしてその答えを理性が示そうとしたが、彼女の感情が
それを激しく拒んだ。否、と。それは間違いである、と。
なぜならその答えが示す感情とは、ミランダの中ではグレープフルーツのように
酸っぱくでほんのり甘いものなのだ。
酸味を含んだその甘さはそのうち、ケーキの生クリームのようにふんわりととろけるような
甘さに変わっていく。その甘さに心がホッとして思わず笑みが零れてしまう……それが
ミランダが想像している感情の答えなのだ。
決して眉間に皺を寄せて痛む胸を手で押さえるようなことではない。だから違う。
そんなわけがない、とミランダは理性の答えを頑なに拒んでいた。
「ミランダってけっこう強情さ?」
人気のない書庫でラビに突然そう問われ、ミランダはどう答えを返していいかわからず
立ちすくんだ。そんなミランダの様子を見ながらラビは一歩一歩近づき、ミランダの
頬にそっと指を滑らす。たったそれだけのことなのにミランダの背筋がゾクリ、とした。
「ずっと待ってたんだけど、ミランダがなかなか言ってくんないからさ。」
「べ、別に言いたいことなんて私…な、ないわ。」
「そっかなー。オレにはそう思えないんだけど。………だろ?」
「そんな…。」
猫の子をあやすような優しい声色で問うラビに対し、ミランダはうわずった声で答えた。
その様子から二人の緊張の度合いは一目瞭然で、ラビはミランダの緊張具合を楽しむように
見つめる。そして、ミランダに『答え』を突きつけた。
「ミランダはオレのこと好きだろ?」
今まで目を逸らしていた『答え』を突きつけられミランダの目が見開く。
ミランダの頭の中は警鐘を鳴らしていた。危険、だと。それ以上聞いてはならない、と。
けれど、声を発することも指一本動かすことも今のミランダにはできなかった。
正確に言えば許されていなかった。目の前にいるラビに。
「ビンゴ?」
ゴクリ、と唾を飲み込んだミランダは必死に言葉を探そうとしたが見つからず、代わりに
顔を横に振った。そんなことはない、それは違う、自分はラビのことは好きじゃない、と
叫びにも似た願いを込めて。
けれど、ミランダのその仕草にラビは慌てることも怒ることもなく、悠然と佇んでいた。
それがミランダに不気味さを与えているのだが。
「ふぅん。何処が違うんさ?教えて、ミランダ。」
優しい声なのにまるで猛獣に撫でられているような恐怖をミランダは感じていた。
息をするのも苦しい。ラビの側にいるせいなのか、それとも『答え』を突きつけられた
せいなのかどちらかはミランダにはわからなかった。
それでも、上手く動かない声帯を絞るかのように声を紡ぎ出す。
「わ・・・・私はラビくんのこと・・・・好き・・・・じゃない、わ。だって・・・。」
「だって?」
「ラビくんのことが好きならその、幸せな気分になれるはずなのに・・・・・。
そんな気分にちっともならないしそれどころか・・・・。」
「それどころか?」
「ラビくんのことを考えると痛むのよ、ここが。」
そう言って胸の部分を手で押さえるミランダを見て、ラビは初めて表情を変えた。
驚いたような表情は一瞬で消え、何か得心したかのように笑みを浮かべる。
「へぇ・・・・・痛いんだ、ここが。」
ラビの視線がちらり、とミランダの胸元へ下がる。別に触れられたわけでもないのに
ミランダはカッと全身が熱くなった。見つめられるだけでこんなにも居たたまれなくなる。
「ミランダ。」
「な…なに?」
「そろそろ見て見ぬふりは止めにしない?」
「え?」
こういう会話も嫌いじゃないんだけど、とラビは前置きしてミランダの耳の後ろの髪に
手を差し込む。髪越しに伝わるラビの指の感触と体温にミランダの背筋がぞわり、と
ざわめいた。
「なんで痛いか理由はわかってんだろ?」
「そ…そんなこと…!」
「認めるのが怖い?」
「っ!!」
未だ答えを拒否するミランダ。けれどラビは少しも急かさず、自分の胸をトン、と叩いた。
不思議そうな顔をするミランダにラビは笑いかけた。
「ミランダ。オレも痛いよ、ここが。」
そんな、と目を見開くミランダの髪をラビがそっと梳いた。
「どうしてかって?そんなの簡単さ。オレがミランダが好きだから。だから痛いんだよ。」
好きだから痛い。ラビの言葉にミランダはきょとん、とした顔をする。なぜ、同じなのだろう、と。
ラビがミランダを好きで心が痛むというならば、それならば自分がラビを見て心が痛むその理由
もひょっとしたら――――――。
「…ラビくん。」
「お願いさ、ミランダ。いっつもオレの側にいて。そうじゃないと痛くて痛くてどうにか
なっちゃうから。ミランダじゃなきゃこの痛みは止められないんだ。」
「私…?」
「そ。その代わり、ミランダの痛みはオレが引き受けるよ?痛みは痛みでも、癖になる
甘い痛みにかえてやるさ。」
俺に任せろ、と笑うラビ。それを見ていたミランダはどうすればいいのかわからず、
ジッとラビを見つめた。ミランダの思考を悟ったラビは、有りっ丈の想いを込めて
彼女の耳元で囁く。
「ミランダ。」
自分呼ぶラビの声にミランダの意識がくらり、となる。あまりにも優しく甘い声に。
そしてズキリ、と胸が痛んだ。今まで感じたことのない痛み。けれどちっとも不快ではなく
もっと感じていたいような不思議な痛みだった。そしてその甘さを含んだ痛みをミランダは
とても貴重なものに思えたのだ。今までミランダが痛みに怯え、目を背けていた世界が
彼女の目の前に広がる。ラビの手によって。そしてラビの優しく傲慢なセリフがミランダの
背中を押す。
「おいで。」
甘さを含んだその言葉に、抗う術をミランダは持ち合わせていなかった。
<終わり>
名前を呼んで。愛を囁くような甘い声で。